この遺跡の中で、私達が目指したのは屹立した岩山の中腹の、岩の窪みに5世紀に描かれた18人の天女像(当初は500人程描かれたそうです)を観ることでありました。
そもそもこの岩山は、5世紀の477年、親殺しの王として知られ君臨した
カッサパ1世が、弟の復讐を恐れてこの難攻不落の岩の上に王宮を建てたものであります。
殺された父王(ダーツセーナ王)も、嘗てこの山の上に宮殿を建てる夢を持っていたと言われ、父殺しの罪にさいなまれたカッサパ王は、父の夢を実現すべく王宮を建て、高僧の助言で雲の中に舞い降りたセイロン夫人の天女像を中腹に描かせたものだそうです。
天女像は、有名なインド・アジャンタ石窟の女性像と描写が類似し、立体性を持たせる為、赤での隈取り技法が用いられております。
この壁画は、当時の宮廷風俗を描いた世俗画か、または宗教画か、という議論が長く続きましたが、今日では天から舞い降りた天女とされ、宗教画とされております。
仏教的には、親殺しは重大な五逆罪の一つですから、せめて天女を描いて父親を供養しようというカッサパ王の悲願があったのでしょうか。
因みに、この天女の美人画は、1875年英国人デビッドが望遠鏡を覗いていて偶然に発見し、1877年セイロン総督が英国人ムレーに命じて13体を模写しております。
また、日本人の杉本哲郎画伯も1937年(昭和12年)にこれを模写し、京都国立博物館に模写が保管されているのでありますが、最近スリランカからも杉本画伯の模写図を研究しに来たそうであります。
以上でまんだら通信・報告を終えます。
平成22年5月22日 奥泉裕史